平泉の山の畑だより〜ワインづくりに悪戦苦闘〜

 2009年に本誌で連載をいただいたように、ワルン・ロティでは2008年から岩手県「農事組合法人アグリ平泉」に小麦の契約栽培を依頼している。亡き父が開発した品種「コユキコムギ」だ。
 1ヘクタールから現在は3ヘクタールへ。2011年にはアグリ平泉も世界遺産・毛越寺の隣に「きんいろぱん屋」を開店。きんいろぱん屋でもコユキコムギを使い地元と観光客にも愛されるパンの開発に努力している。
 小麦の六次産業化に成功したアグリ平泉から「ワインをパンと販売できたら」と、相談を受け「平泉ワイナリー」づくりがスタートした。

● ワインが作れる人を探す
 ひとり心あたりがあった。関根康之さん。20年ほど前、私がチーズ&ワインアカデミーで「チーズとワインとパンの相性」の講義をしていた時の生徒さんだ。フランスへ渡り2006年にボルドー大学醸造学部ワイン技術コースを終了したと聞いていた。SNSで連絡すると日本におりなんと転職活動中とのこと。「ワインを造って欲しい」と、説得した。

● 耕作放棄地を開墾して畑をつくる。
 2017年、関根さんはアグリ平泉の職員となった。東京育ちの彼が見知らぬ土地で不安では?との心配は杞憂だった。田植えも小麦の収穫も手伝いつつ農家のオジサン達に馴染んでいった。
 畑はもとは田だった中間山地の耕作放棄地をアグリ平泉が借りた。藤原一族栄華の頃、西行法師が桜を歌に詠んだ束稲山の麓にある。山桜が咲く美しい畑だが田には向いていなかった。「石がごろごろで田んぼは苦労したの。だあれ、ぬかるんだ泥が必要だがら。石があっちゃマズいんさあ。後継ぎはもうやれねえって。」と。
 シャベルカーで土を掘り起こして開墾した。大きな岩が出る。水も沸く。農家のプロたちが山から竹を切り出して畑に埋め暗渠排水を施した。掘り出した岩で水路をつくり水脈を変え畑から水を抜いた。

● 醸造場は古い事務所をリホーム。
 ワインをつくる施設も手作りだ。31坪の旧事務所を改造して税務署に醸造所の申請をした。床板を剥いで土間にし圧搾機や発酵タンクを設置。予算はなく最小最安の機材を探した。行政の六次産業助成金も頼りだ。
 春が来て30アールにナイアガラ、キャンベル、デラウェアを植栽した。日本馴染みの品種は苗が手に入れやすく、生食用としても販売しようと考えた。ワインに作れるほど熟した実が穫れるには3年は育成期間が必要だ。「なあに生食はいまは種あっちゃ売れねえの。」と、もくろみは外れたが。
 開墾を続けてヨーロッパ系のぶどう品種、シャルドネ、ソーヴィニヨン ブラン、メルロー、ピノノワールも、植えた。

● 周囲からぶどうを買い集め、はじめてのワインができる。
 畑の木が育つまで、他から原料を仕入れた。地元ブランド「大文字りんご」でシードルをつくり、隣の一ノ関市からナイアガラ、キャンベルとノースレッド、150キロ北の雫石の農家からヤマブドウを仕入れた。
 「あっちにぶどうがあると聞けばあっちに、こっちと聞けばこっちに。木を切ってしまった農家さんが多くて。ヤマブドウも雨の中の収穫で糖度が上がっていなくて。」と、苦労した。
 それでも、ナチュラルな風味のワインができあがり、少し置いた方が風味が落ち着くのに、待ちきれずみなで封を開けた。
 ワインの醸造は酸を添加してワインの骨格を補ったり、砂糖を加えて糖度を高めアルコール度を補強したり、加熱してワインの酸化を止める技術を使うこともある。関根さんがつくったワインは、酸も糖も添加せず、加熱せず、しぼったままの味と香りをやさしく包み込んだワインだった。

● おらほのワインができた!が、突然に大黒柱を失う。
 2019年秋、自社畑のぶどうでワインをつくる時がきた。初収穫に心躍らせて東京から20人のワイン好きを連れて平泉に向かった。2020年秋は本格的な収穫ができた。年明けには瓶詰めを終えて1500本ほどのワインになった。ラベルも一新。自社畑ワインは「Ora(オラ)シリーズ」と名づけた。世界遺産・中尊寺金色堂(エスペラントで黄金はOra)に見守られたオラ(俺)たちのワイン、という意味を込めた。
 リリースはいつにしよう。新しく植えるぶどうの苗も届いた。250本のメルローを新たな区画に植えるのだ。今後が期待される。
 3月、訃報が入った「関根さんが倒れました」と。脳溢血だった。「ちょっと待ってよお〜!!」と、私の心は叫んだ。いまも叫んでいる。
 ワイン作りは?畑は農家のプロがいても、誰が醸造を?なにより古くからの友人を失った。
 パン屋でも涙がとまらない。「平泉に誘ったのは私だ。お母様になんと言ったら・・」と、申し訳なさでいっぱいだった。
 2021年3月19日ご葬儀の日、関根さんのお母様に初めてお会いした。上品な女性で化粧品系の仕事をしていると知った、なるほど関根さんのつくった香り華やかなワインのスタイルははお母様ゆずりだった、と気づいた。

● パンを焼く合間にぶどう畑へ通う日々が続く。
 6月、パラパラと雨が降る葡萄畑。何もなかったかのように、ナイアガラの木は、盛んに実をつけ幾つもの房の重みにたえられずに、枝が地面をはっていた。違う!間に合っていない。ぶどう畑の手入れが間に合っていない。   ソムリエの資格はあっても机上の知識だけの自分にも、急がないと、と。房をつけ過ぎると果汁の糖度が上がらない。薄っぺらい味のワインになってしまうハズ・・だ。もっと、養分と、ミネラルを粒に凝縮させないと、いけない。ハズ・・だ。
 畑では関根さんの相棒だった農業プロのブンシロウさんと、まだ若い女性の2人で守っていた。2人で黙々と作業をしていた。気が気でなく、私も畑に通った。
 が、行くたびに初夏のぶどう畑の勢いに打ちのめされる。秋になったら醸造もどうしよう。

● 希望の光がさしてきた。心がへし折れそうになっても。
 誰か代わりはいないか、とアグリ平泉の佐々木正代表と頭を抱えた。人ひとりの代わりなどそもそもいない。私もパン屋を休めない。ある日クッキーを焼いていて砂糖を入れ忘れた。畑の疲れがミスを呼んだ。
 そこへ「醸造のポイントは指導しましょう。リモートの時代ですし。」と、100キロ北の花巻でワインをつくる高橋葡萄園の高橋喜和さんが協力を申し出てくださった。岩手のワイナリーは仲が良い。
 しかし、誰かが醸造の現場にいなくてはならない。作業の流れが解る人が欲しい。一関農林振興センター・農政推進課から川原周祐主査も声をかけてくださった。「行政も支えていきます。探してみましょう。」と。
 そんなある日、パン屋に「平泉のワインがあるときいて?」と、女性が訪ねてきた。千曲川ワインアカデミーでワインづくりを勉強したという。窮地に光をみた。「運命の相手というのはこちらの心がへし折れそうになると現れるものです。」と、その時ラジオで流れた。平泉に来てくれないだろうか。

● 続けなくては、そして良いワインをつくっていこうよ
 窮地の光となってくれたのは、武居紹子さん。とりあえず一度、平泉に来てもらおうと、畑へ案内した。もう、待ち構えていたとばかり、アグリ平泉の代表も、一関農林振興センターより川原主査も、平泉町より農林振興課長補より、佐々木元課長補佐、そして高橋葡萄園から高橋喜和さんも、一同集まった。
 みんな関根さんを支えていた、平泉ワイナリーを応援してくれる人たち、「関根チーム」だ。
 山あいにキラキラと光がさす、一面のぶどう畑。もう1.6ヘクタールまでなだらかな斜面をつくって拡がっている。ときおり鳥の声がする。遠くで草刈り機を動かす音も。
 紹子さんは、この静かなぶどう畑をとても気に入ってくれたようでした。「1日中、ここにいて、ぶどうの世話をしていたい。」と。 
 なんと、東京育ちの女性にとって、一番のハードルであると思われた田舎暮らしは、悪くないと思っているようだった。農業姿のおじさんたちにも抵抗はない、という。ツナギの作業着に黒いゴム長姿の。貴重な人だった。

● 「関根チーム」で、ふたたび、平泉ワイナリーが動き出す
 しかし、紹子さんは「千曲川ワインアカデミーで、ワインづくりは一通り勉強しましたが、現場でずっといたことがない」と、仕事に不安を抱えてるようだった。「友人のワイナリーは時折手伝ってはいますが」と。
 でも、わたしたち、平泉ワイナリーには後がない。ワインが好きで、おいしいワインをつくりたいという気持ちを持っている、そして現場にいてもらえる。それだけでも充分だ。
 「みんなで助けるから。一人ではなくて、みんなでワインをつくるのだから。力を貸してください」と、説得した。
 2021年8月23日、紹子さんは、平泉に向かった。25日からは、盛岡の工業技術センターで特別講習がはじまった。畑の守り人、ブンシロウさんも、新人のメグミさんも一緒だ。ほんとうはワインより「熱燗の酒っこ」が好きなブンシロウさんも、納得のワインをこれからつくっていくのだ。関根さんの努力は無駄にはしない。